情報化社会の神話と構造

序文

ブログというのは情報化社会の最前線である。

毎分毎秒、数多の情報が生まれ、消費されている。

利用者は目の前の電子機器にキーワードを入れ、出力された玉石混交の情報を清濁・正邪の判断もしないまま無ろ過で浴び続ける。

これまで私は情報を受け取る側でしかなかったが、自身でブログを通じて情報を発信するようになり、その最前線を垣間見るうちに情報化社会について考察したいと思うようになった。まだブログを始めて1ヶ月半というわずかな時間ではあるが、情報化社会においてこそ時間の経過は重要ではないということを言い聞かせつつ書いている。

 

 

タイトルはジャン・ボードリヤールの著作『消費社会の神話と構造』をオマージュしている。タイトル負けしているとは自分でも思うが、それ以外に適したタイトルを考えることが出来なかった。タイトルについての批判がもしあれば甘んじて受けたいと思う。

『消費社会の神話と構造』は名著である。

読んだところで、たちどころに何か問題を解決するような実用書ではないが、社会に対して言語化できない悩みがある人にはおすすめしたい。

 

考察中にあたってあまり極論を述べないようにしたいと考えているが、わかりやすく論ずるために止むを得ず極論を述べることもある。不快な思いをさせたのであればご容赦願いたい。また考察中、現代を象徴する若者という形や炎上した人物の例で特定の人物を挙げるが、彼らを非難し貶めるつもりはないので、その点は予めご理解いただければ幸いである。

人間の目指す地点とその矛盾

人間というのは本質的に矛盾を抱えている。まずはそのことを明確にしていきたい。

人間の文明の発展の目的というのは究極的に言えばいつか働くことも余暇を楽しむこともなく、身動きすら取らずに永遠に生きていくことを目的としている。

反論はあるかもしれないが、まずは聞いてほしい。

なんの道具も持っていなかった我らの先祖は木の棒や石を『道具』として用いることで、糧を得て生き延びてきた。手が届かない高い木になっている果物を得るために、手の延長物として『道具』を使う。拳で動物を殴り倒すには多くの被害が生まれる可能性がある。自分の手を痛めるかもしれない。動物に逆に襲われる危険性もある。その危険性を減らすために石を握ってぶつけたり投げ当てる手の延長物『道具』として石を使った。

身体的な機能を延長させたのが『道具』である。 

これまでの人間の歴史上『道具』の拡大発展が文明の発展であり、人間の身体的心理的負荷をあらゆる手段で軽減・なくすことを目標としている。

わかりやすい例をあげるとすれば、人を攻撃する武器の発展である。
拳や足などの身体そのものを用いていたのが、棒や石になる。
より効果的に被害を与え、より自分の身体で受ける反動を減らすために、より固い武器を作っていく。さらに発展していくと、引き金を引くだけで弾が飛び出し、簡単に相手に大きい被害を与えることができる銃というものが生まれる。

実際に体験したことがないので想像の産物でしかないのだが、鈍器や刃物で直接的に人間を攻撃するより離れたところから、触感を感じることなく人に被害を与えると実感が少なくなるだろう。これは心理的負荷を軽減させる効果もある。

足の機能を拡大させていった過程も面白い。

足を使って歩いていくというところから車輪を発明し、車輪をつけた荷台・車を作る。これにより足を動かすという負荷をなくした。さらに車を引く人間や動物を養うコストを軽減させるために自動車、バイクが生まれ、長距離をより早く移動するために飛行機が生まれ、宇宙まで行くために宇宙船の開発が進む。ここまではあくまでも人間が移動するコストを軽減させるという視点からの発展である。

これを搦め手から発展させたのが、通販でありオンラインショッピングである。これは店舗まで歩いて行くという、歩く+買い物の負荷を減らすための発展である。
言い方を変えると、目的地に行くことを目的としているのではなく、目的地を近づけさせることを目的としている。また何を買うべきかという思考すら外注させ、買い物傾向から割り出すおすすめ商品リストが提示される。このシステムが最適化されていけば何も自分で行動をしなくても必要なものが必要なだけ必要な時に手にはいるようになるだろう。

個人から社会へ目を向けてみよう。

社会による社会自身の負荷軽減はあらゆるところで行われている。

その一つの代表例が貨幣文化である。かつて取引が安定化しない物々交換でしかなかった。そこで社会全体として貨幣には一定の価値があると定義することにより、取引の安定化を図った。取引の安定は社会の存続・拡大に不可欠であるからである。

今我々が目の当たりにしている社会の負荷軽減はインターネットによるグローバリゼーションである。世界中リアルタイムにどこでも同じサービスを受けられるのであれば国を分ける意味はなくなる。オンラインはすでに無国境である。どこにいようが同じ情報を参照する事ができるのだ。またオンラインでの支払いという負荷を軽減させるためbitcoinなどの共通仮想通貨が生まれている。

これらの事実からあらゆる道具(サービスと言い換えてもいい)は、人や社会にかかる負荷を軽減させるためにあることは自明である。 

その行き着くところは、全ての負荷がなくなった状態である。

映画マトリックスではその状態から抜け出そうと奮闘する主人公が描かれるが、あれこそが人間の行き着くところである。

(観たことがない人に簡単に説明すると、映画マトリックスでは現実だと思っているのはコンピューターによって見せられている夢であり、現実では人間がカプセルの中で培養されている状態である。そこからの解放を目指すのが映画の主題である)

なぜその状態からの解放を目指すだろうか。

それもまた人間の本質だからである。

ヒトは個体としてこれほど脆弱なのに地球上でこれほど拡大したのか。
それはヒトが取った生存戦略が正しかったからである。

生存戦略については以下のページを参照いただきたい。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

考察にもかかわらず、外部リンクを貼るのは恥ずかしいことだが、これほどまでに簡潔にわかりやすく述べられている例はない。

補足したいこともあるので、まとめつつ個人的な意見も記載する。

種としてのヒトの生存戦略の取り方は「多様性」である。なぜなら多様性がない生物はなにかの切欠で全滅する可能性があるからである。例えば同じ好みを持ち、同じ食物だけを食べていて、その食物に致死性の毒が発生したら全滅してしまう。だから好みという不完全な機能を持たせることで、全滅を免れようとしている。

興味深いことに、これは個人の身体的なものに限らず、社会としてもこの機能は働いている。その一つとして時代や土地によって大きく変わる社会的規範である。

精神障害は今の時代において、尊重すべき個性であると論じられるが、論じる必要があるほど社会では受けいれられていないものであるというのは事実である。

その一方で、かつて精神障害者が崇められていた時代がある。
原始宗教や新興宗教の開祖は、統合失調症の症状が出ているケースが多いと言われている。神からのお告げを受けるいわゆるシャーマン的な役割を持っていた。社会には必ずある数の精神障害者が、生まれることはよく知られている。その精神障害をもつ人間が生まれるのも人間の生存戦略であり、その多様性を潰さないために生きる道を社会が提供したかのようである。

社会のおける麻薬の役割も興味深い。多くの社会においては、禁止され忌避されている薬物(最近は一概には言えない)であるが、宗教的な一面も持っている。麻薬を摂取し、トランス状態になることにより神と交信が出来ると信じている民族もいる。それは未開だからであって、間違っていると誰が言えるのだろうか。

とあるウィルスが蔓延した時に、それを摂取している人間だけが免疫が出来る可能性だってある。

生存戦略のために多様性を保ち続けるだけでなく、その多様性をさらに広げていく。それこそが人間の生存戦略である。

だからこそ映画マトリックスでは、人間の解放を目指すのだ。

人間というのは進歩を求め続け画一化を目指しながら、それをよしとしない矛盾を抱えている種であり、それが正しい姿なのである。

 

多様性の本質 

最近、はてなブログを通じて『普通に生きて行くのが嫌だから、大学を中退して、起業をする』と発信、炎上したケースがある。これまで論じてきたように人間の生存戦略に当てはめて考えると『普通が嫌だ』という考えは、正しいといえる。

しかし、疑問を覚えるのはこれが本当に多様性なのかという事である。

残念ながら『学校を中退し起業をする』というのはすでに使い古されたラベルであり、ある集合体から見れば『普通』なことである。

しかし、彼はそれが『普通ではない』道であると信じたのはなぜか。

それは『多様性・個性を持つ』という言葉の陳腐化が原因であると考える。

かつて「世界に一つだけの花」というSMAPの歌が流行った。『人と違っていいんだ。争わなくていいんだ。あなたはあなたであって、それだけでいいのだ』という趣旨の歌である。

ある意味本質を射ているが、解釈する側に問題があった。
言うまでもなく、人間はすでに個性的である。DNAが違い、身長も体重も違う。
同じ人間はどれだけ探してもいない。
いつか人間のクローンが生まれるだろう。
しかし仮に同じDNAを持っていたとしても、100%同じ環境で育てる事が不可能である以上、同じ人間であると言うことはできない。
一卵性双生児が同一人物であると言えないのと同じ理由である。

解釈する側の問題は、本来すでに持っている個性を他に求めたことである。

ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』では、わかりやすい例が挙げられている。

市販化された画一的な髪染めの宣伝広告が『これであなたの誰にもない個性が手に入ります』なんという皮肉だろうか。画一化された工業製品を身に付けることでどんな個性が手に入るのだろうか。むしろ、その髪染めが広まれば広まるほど普通になってしまう。 

今では『多様性・個性を持つ』というのはただ消費されていくためのマーケティング用語に過ぎないのだ。まるで簡単に個性を得る事ができるような勘違いを生み出す販売促進に過ぎない。

それでは、本質的な『多様性・個性を持つ』というのはどういう事なのか。

大前提として人間というのは共通認識に頼って生きている。
それは昔から言われるイデアであり、シニフィエ・シニフィアンであり、クオリアと呼ばれるものである。
虫が考えていることはわからない。クジラが考えていることもわからない。
でもなぜ人間同士はわかり合うことができると信じることができるのだろうか。
それは共通認識を持っていると信じられているからである。

その共通認識をさすのがイデアである。

リンゴといったとき、それぞれが思い浮かべるリンゴは違ったものである。
しかし、みんな『リンゴ』を認識しているようである。
じゃあ、リンゴというものにはそれぞれの目に見える形だけでなく人間の意識の中にリンゴという共通で認識される何かがあるはずだ、それをイデアと呼ぼうと決めた。

そのイデアがあると信じられるから、人は人を理解できると信じられるのである。

共通の認識があるのであれば、そこを起点にお互い納得した上で約束事・ルールを作り、うまくやっていくことが出来るだろうと考え、社会というのは形成されてきた。

その解釈がジャン=ジャック・ルソーによる『社会契約論』である。

約束がない限り身体が強い人が自分の能力のまま一方的な暴力を振るい、個人の欲望を満たすことを目指す(自然状態)であり、それでは共同体として成り立たない。

共同体を形成するためには、各人が社会と契約することで、行動に一定の規制を受ける一方、ある程度セーフティーに生きる権利というものが社会から保証される。

普通から抜け出すには、そんな共通認識から抜け出すしかない。
どんな行動を取ろうと、社会に所属して人間的な行動を取っている限り、誰かの立場から見ると「普通」に見えてしまう。(共通認識を持ててしまう)

リンゴと言われて蛹が羽化する風景を思い浮かべ、死んだネズミを見て数学的秘密を理解する。そこに他人がわかる論理があってはいけないのだ。

インターネットに消費される人間

『多様性・個性を持つ』という事が商品化され、消費されるようになった。
それを異常な速度で、加速させているのがブログやSNSを含むインターネットである。

突飛なことをすると注目され、自分が特殊であるかのような勘違いを手軽に得る事ができる。それにより、自分は人と違う個性を持った人間だと勘違いできる。

例を挙げるまでもない。インターネットを繋げば常に誰かが世間を騒がせている。

そこでは、ある人物の言動・行動に対し賛否両論多くのユーザーがそこに集まり(大抵は否定派である)討論・議論・言い争いをする。ユーザーが集まれば集まるほど、あらゆるメディアを通じて拡散し、さらにユーザーを増やしオンラインでの通信が拡大。
時が経つにつれて、波が収まると別の人間の言動・行動が拡散され、ユーザーは移動し、またメディアで拡散。オンラインの通信が拡大化する。

まるでインターネットがその勢力を拡大し影響力を強化するために、人間を消費しているかのようである。怪物が人間にあらゆる事をやらせ、勢力を拡大させ、用済みになった人間はインターネット社会だけでなく現実社会からも追放する。

インターネットはかつての限定された人間だけが繋がる閉鎖空間だった姿を昔のこととし、現実社会へ着実に影響力を拡大させている。象徴的なのが、長谷川アナウンサーの炎上&降板の流れである。

事実、かつてはインターネットで何を言おうと今ほど拡散することはなかった。
逆にインターネットで拡散されていたのは、テレビのキャプション画像であった。
テレビがインターネットの情報源であったのが、インターネットがテレビの情報源となっている。

いまではテレビとインターネットの優位性は一部逆転している。情報伝達・拡散の速度でいえば、インターネットを超えるものはない。
そして、この怪物は簡単に現実へと手を伸ばす事ができる。その時代の移り変わりを理解していなかったがために起こってしまったのだろう。特にメディアの内側にいる人間にはわかりづらい事だったのかもしれない。

哀れにも彼はインターネットという怪物に消費された一人の人間であった。

これからのインターネットは宗教になるのか

インターネットでは冗談でグーグルをGoogle神と呼ぶ。
しかし、インターネットの目指す先を考えると冗談ではすまないかもしれない。

コンピューターは人の脳の拡大の『道具』として発明された。
非常に難解な計算を外注するという形でコンピューターは発明された。
その機能の拡張・高度化の一環として、遠隔で通信ができるようにしたのがインターネットの始まりである。

パソコンやインターネットの持つ『脳』拡大の機能の発展のため、人工知能や人間の脳の働きを計算上のシミュレーションによって表現させようとしたニューラルネットワークの研究が進んでいる。

人間の脳を機能的にコンピューターがシミュレーションできる日もそう遠くないだろう。それもその脳の演算は人間の思考の速度とは比べ物にならないだろう。

その人間と比べ物にならないほど優秀な人工知能が誕生し、人間がそれに頼った生活を始めたとしたら、果たして多様性は維持・拡大できるのだろうか。

社会的規範から外れた人間を徹底的に追い詰める今のインターネットでの人々の行動を見ていると、多様性を認めない考えを強く感じる。

情報化社会というのは、良くも悪くも雑多な情報が集まるというのが特徴だったはずが、いつのまにか言語化されていないルールに雁字搦めにされ現実の行動をも規制されている。そしてSEOなどの謎の言葉により、情報の取捨選択が勝手にされた状態で手元に届けられる。

まるでインターネットという怪物が、多様性を認めないようにも見えてくる。

人間の本質は矛盾に対する寛容さだとすれば、今のインターネットというのは画一的な考えしか認めないように人間の本質を変えようとしている気がしてならない。

まとめ

人間の多様性は様々な問題を生み出す一方、人間らしい素晴らしいものを生み出してきた。神話や民謡、芸術作品などは人間の多様性の産物だと思う。
そして、それを見て動かされる『心』こそが人間が人間である所以だと私は考える。果たして、人間の『道具』の拡大は『心』すら外注してしまうのだろうか。見守っていきたいと思う。

また一人の人間として、言葉や概念に踊らされる事がないように思考しながら生きていきたいと思う。

最後に考察の参考になった本を挙げる。
あなたにとっても参考になれば幸いである。

<参考図書>