人間・人物批評論 私の考え方

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今日も今日とてブログのPV数アップの仕方とか読んでいるうちにブログの深い沼に囚われました。
ネットでの誹謗中傷や争い。
それを観察して記事にしている人。
さらにその観察者をまとめている人などの記事。
食傷気味になったので、個人的な考えをまとめるために記事を書いてみます。

結局お前も同じ穴の狢だろ!という批判は受け付けます。
受け付けたところで何もしませんけどね!

私もかつては高校生でした。
私が通っていたのは私立の男子校。プチ自慢ですが、わりとスケールが大きく優秀な学校でした。

当時、私は文化祭実行委員に高校2年から高校3年まで所属していました。規模の大きい文化祭だったので担当ごとに部署が分かれており、その中でもアクの強いというか個性豊かな部署にいました。

今思えば、私の人に対する考え方というのはこの時に固まった気がします。

我々が担当していたのは、文化祭そのものとはちょっとだけ距離があり、かなりの独自性を持っていました。
何をするのも自由。
あまりに自由すぎて、学校を通さずテレビの取材を受けたりもしました。
それに予算の使い方もかなりグレーでした。

鶏が先か卵が先かわかりませんが、本当に自由な環境だったので、才能豊かな人材が集まっていました。

そこで気づいてしまったのは、あまりに自分が凡才であること。

当時思春期真っ只中。なんでも思ったことは実現できるという無敵感を持ちつつも現実を受け入れたのがあの時だったと思います。

信じられないような斬新な企画を出す奴、芸能方面に一人でコネを作り交渉する奴、プロが作ったとしか思えないデザインを作成する奴、素晴らしいパフォーマンスを数千人の前でする奴。

すごいメンバーが揃っていました。
今もそのまま成長し、それぞれの特色を活かし第一線で働いています。

そんな彼らの中で凡才な私がコンプレックスを持ちそれを大人になった今でも拗らせているかという話かというとそうではありません。
彼らの傍で、一緒に一つの目的(企画を成功させる)に向かっていく中で一つ学んだことがあります。

それは、何かに特化すると何かを失うということです。 

ある分野に才能がある人が万能かというとそうではないのです。

私が理解したのは、人間の能力値っていうのは100までしかなくて、それを割り振りしていく形なんだということ。

創造性に数字を割り振った人は、必ずどこかの数字が低いです。
社交性豊かな人は、見えにくいけど、どこかの数字が低いんです。

頭の回転が遅くても、人との関係性の構築の仕方が上手い人っていますよね。そういう人は、関係性構築に才能を割り振っています。

「そうはいっても、私の知っている人で全てが優秀な人がいるよ」と思う人もいるかも知れません。

それはあなたがその人を観察しきれていないだけのことなんだと私は思います。

 

さて、話を戻して人に対する誹謗中傷とか。
ブログ界隈でいうとイケダハヤト氏とか誹謗中傷の的になりがちですね。
あの人の不特定多数への喧嘩の売り方ってすごいですよね。

それに対し憤りを感じる気持ちはよくわかります。
そして『まだ高知で消耗しているの?』と煽りたくなる気持ちもわかります。

でもまぁそれでアクセス数を稼ぎ、noteで売り上げをあげる能力があるのは素直に賞賛したいと思います。

最近では、長谷川豊アナウンサーが一部の人を中傷しまくって職を失いつつありますね。正しいかどうかは別問題として、個人の意見としてあってもいい話です。

 

まとめ

ちょっと話が脱線したりしましたが、まとめてみましょう。

人は限られたリソースを割り振っているだけなんだと思います。

誰かに対して劣等感を感じたり、自分に対して不甲斐なさを感じた時は、こういう風に考えると人に対しては優しく・自分を責めすぎないで生きていくことができると思います。

なんだか最近の世の中、過度に批判されたり、人からの批判を恐れたり大変です。
特にインターネットの世界ではそういう傾向が強く、インターネットと現実世界が近づいている中、生きにくくなっている気がします。

人に厳しく、自分に優しい
人に優しく、自分に厳しい

どちらも大変です。

じゃあ、どっちにも厳しく生きていくのもいいと思いますが、個人的にはどっちにも優しい方が生きやすいと思います。

自分を甘やかし過ぎるのはちょっとまずいと思いますが、思いつめてどうにもならなくなるとせっかくの1度きりの人生もったいないです。

面白おかしく、人に優しく生きていきましょうよ。